それは自己満足というやつなのでは

三ヶ月ほど前から休職した。

抗うつ剤を服用し始めてから少しずつ生活のペースを取り戻してきてはいるものの、最近はその抗うつ剤を飲むことに抵抗を感じている。

休職してしばらくの間は職場に対するありとあらゆるストレスが脳を占めていたが、そのうちだんだん昔のことを思い出すようになり自分が踏みにじってしまった気持ちや、傷つけてしまった言葉、潰してしまった可能性ばかりに気持ちが向かうようになった。

それは最悪の別れ方をした昔の恋人だったり、直近で好意を向けてくれていた人だったり、自分の母親だったり様々なのだけれど、誰を思い出しても胃の奥がズンと重く、心臓が異様に痛くなり、取り返しのつかないことをしてしまった。死んで詫びたい。という気持ちになった。

それがここ最近、抗うつ剤を飲み始めてからは誰を思い出しても以前のような辛さがないのだ。

早く心身健康になって働きたい、職場に戻らずともきちんと家事ができるようになって普通の生活を送りたいとは常々思っているものの人を傷付けた事実や自罰的な痛みまで風化していることにかなりの抵抗感がある。人の心や人生に少なからず傷を付けて、のうのうと幸せを享受してもよいものだろうか。しかし、もう関わらない人間への罪悪感に一生囚われて一番近くにいる大切な人に著しく負担をかけ続けるのもおかしな話じゃなかろうか。自己矛盾についてずっとぐるぐる考えている。きっともうずっと前から自分が手放しに幸せになることに対して抵抗があるんだろう。

自分が幸せになる最適解として、自分の意思で夫との結婚を選んだはずなのにあまりにも矛盾しているなと思う。

東京

東京大阪間で遠距離恋愛をしていた。

 

2020年、感染症が猛威を払いはじめた頃、IT系の弊社はいち早く在宅勤務でのリモートワークを取り入れて長年家族と折り合いの悪かった私はこれ幸いと言わんばかりに目にまとまらぬ速さで東京の彼の家へと逃げおおせた。

それからすぐに東京はロックダウン、会社からも県外への移動は禁止されて、婚約後半年経ってようやく同棲生活が始まった。

 

彼は会社の同僚で、同期入社で、年次も浅いためお互い仕事を辞める予定もなく、リモートワークの導入がなければ婚約して二年経っても籍を入れてない可能性さえ考えられる状況だった。

停滞していた関係が一気に前進し、結婚はタイミングとはこういうことかと実感した。

 

東京に来て数か月経ってから、二ヶ月ほど声が出なくなった。幸福に暮らしているつもりでいた私の体重は、鬱を患っていた時のそれになっていた。感染症の流行後に発生した関連業務で混乱した国民の悪意に晒され続ける仕事は耐え難く、その他のどうにもならない諸々の要因が口論中の彼の一言をトリガーに暴発した結果だった。

 

全ての責任を東京という街に押し付け、とにかく帰りたかった。一時帰阪した際に久々に立ち寄った阪急百貨店や万博の太陽の塔で少し泣いた。地元から離れて暮らす選択肢なんか大学生の頃まで本気でなかった。便利である程度なんでもある街。大阪の北の方。万博のあった街。太陽の塔がある街。川端康成の町。気取った嫌味な気質だと言われる街。ミナミに嫌味と言われようがなんぼのもんじゃいと卒論は北摂のことを書いた。東京への憧れなんか生来微塵もなかったが故に、苦しみばかり募る東京生活を一刻も早く終わらせたくなった。

 

その矢先、彼が会社を辞めることになった。家業を継ぐことになったのが理由だった。彼の地元は所謂地方である。二年後には東京でも大阪でもなくそこで暮らす。勿論私に与えられた選択の余地や話し合う隙はなかった。私は生まれてこの方極度な田舎嫌いであったが、一生地方で暮らすことが私の知らない間に決まっていた。

 

オンラインで上長と退職面談をする彼を隣で見ていた。「自分で選んだことですから」と彼は笑顔で話していた。私は選んでいない。嫌だと言うことを許されていない。自分の意思で別れを切り出さないことを選んだものの、日に日に澱が溜まる。

彼を愛していること、彼は婚姻相手として最善の選択であること、彼とこれからも一緒にいたいこと…と、これは別の問題ではないのだろうか…。

私のことを案じて別居婚も提案された。彼のような知性と優しさを備えた人間が育つ環境なら地元に戻るよりも良いのかもしれないとも思った。

今まで当然に享受してきた水準の利便性を捨て、バックグラウンドの全くない土地でこれから一生暮らすことに未だに前向きになれずにいる。

 

たった三ヶ月ちょっとのリモート期間だけだと思い、「二度と戻ってくるな!」の罵声を背に受け実家を飛び出したあの日。本当に二度と大阪で暮らせなくなるなんて夢にも思わなかった。

いつかこの気持ちに整理がつく日は来るんだろうか。

たまには映画が観たい

たまにはっていうか、定期的に観ているはずなんだけどね。映画。

 

8月も5本は観たんじゃないだろうか。

ジブリfate、コンフィデンスマンは8月だったかな、金曜ロードショーのコクリコ坂はかなり良かった。ああいう知的で"男の子"って感じの子に惹かれたものである。

 

学生の頃は近所に映画館が二つ、梅田まで出ればTOHO、ステーションシネマ、ブルク7、テアトルとよりどりみどりだったので毎週のように映画館に通っていた。観たい映画も無数にあった。

それなのにいざ今いくらでも家にいられることになり、彼の契約しているものと合わせたら動画配信のサブスクのほとんどの視聴権を持っている状況になると特に何も観たくなくなってしまった。勿体ない。

毎日お互いの妥協案のアニメかバラエティを観ている。鬱病になって以降バラエティは(程度の差はあれど)観られなくなっていたので、まあ、回復してきたんだな、と思いつつやっぱり好んでは観ない。

惰性で観るアニメは悪くはないけど、なんだか作品と時間を消費するだけで頭の中がもやもやしてくる。スマホを置いて、2時間集中して楽しみにしていた映画が観たい。

 

そう思ってついに、ミーハーも一通り観終えたであろうハッピー・デス・デイを遅まきながら観た。

観よう観ようと思いつつずっと観てなかった映画。面白かった。嬉しかった。

 

最近、自分で選んだ漫画の打率が異様に低かった。昔はふらっと紀伊国屋に行って、ぱっぱっと直感で選んで買った漫画はだいたい面白く、自分好みの漫画のチョイスに関しては自分の直感へ絶大な信頼を置いていた。

なのに、最近の打率の低さは恐ろしかった。買ったそばから古本市場。作者への経緯で気になった本は必ず単行本一巻購入して継続するか決めるルールを自分に貸しているのだが、もう何冊売り払ったか分からない。

感性が腐ったのか、直感が鈍ったのか、とにかく落ち込んだ。アップデートを怠ったツケなのか。

創作物に救いを求めていたから、ある程度外付けの救いを必要としなくなった今センサーが鈍ったのかもしれない。情緒の安定は感性の毒になりうるのか。

 

などなど、じわじわと焦燥に駆られていたところだったので自分が選んだものが面白いという体験は、シンプルに嬉しかった。

そりゃタイタニック選んで面白い、感動できた。は当たり前なので、面白ことが確約されているものを観て「私は間違ってなかった!」と喜ぶのは相当なアホの所業ではあるのだけれど…

まあ、それはそれである。今は失敗しなかったことの方が大事。

 

これをきっかけに重くなっていた腰を上げて、機械的に放り込み続けたfilmarksのリストをどんどん消化していこうかな。

惰性で映像を流し込み続けるのではなく、今はただ昔のように望んだものを貪り続けたい。

もう二度と会わない先輩へ

喧嘩別れしたわけではないけれど、何となくもう二度と会うことはない親しかった人というのが誰の人生にも一人や二人はいると思う。

連絡不精な私の人生において、親しかったのにもう二度と会えない人の数は少なくない。
それって本当に親しかったの?と問われると非常に厳しいお気持ちになってしまうので控えていただきたい。

小学校の頃の大親友、バイト先で仲良かった先輩、憧れていた男の子、部活の同期、ネットを介して知り合った友達。
本気で会おうと思えばいくらでも行動は起こせるだろうし、連絡も取るだけ取ればいいんだろうけど、人間関係に対する熱意のなさが現状を招いているので勿論そんなことはするはずもなく…。
こうしてたまに思い出してちょっぴりおセンチになって終わりが関の山だ。そしてまた2〜3年は思い出さなくなる。

そんな私でも、未練がましく記憶の片隅に住まわせ続けてる人がいる。
今はもうどこで何をしてるのか全く分からない、そんな先輩の話をしたいと思う。

先輩は同じ高校の三年生だった。
同じクラスの男の子に半ば強引に入部させられた陸上部に所属していたが面識はなく、たまに練習を覗きに来ていた他の三年の先輩曰く大層クセの強い人見知りとのこと。

入部3日目でマネージャー業に嫌気がさし、空虚なアクエリ製造マシーンと化していた私はそんな先輩に関する話を特に関心もなく聞き流していた。が、しかし。
先輩のデコログをいわゆる部活の共同ホムペ(笑)から発見した。詳細不明な大クセ先輩のブログは他の先輩のテンションとは明らかに異なり、リズミカルな陰鬱さとほどほどのキモさと摩訶不思議な世界観を醸す文章に私は一瞬で虜になった。
先輩は面白根暗の人だった。

その日から部活に行く意味を見出した。
この面白根暗と話してみたい。その欲求はいつしか過剰に膨れ上がり、連日遊びに来る三年生にあの面白根暗を連れてきてくれと懇願した。
面白根暗に会いたい一心で、人見知りのくせに色んな先輩に話しかけ、遊びにも行った。全ては面白根暗召喚のためだった。
しかし受験生であり面白根暗でもあった先輩は、既に引退した部活になど一切顔を出さなかった。

結局先輩に会えたのは陸上部全く関係のない、生徒会活動で知り合った先輩(以下A)の紹介によってだった。
先輩のブログのYonda!(当時のデコログのいいね機能)からAを見つけ出した私は早速Aに紹介を頼んだ。
当時培ったこのネトスト癖が、のちに私の恋愛をより面倒くさく猜疑心と争いに満ち溢れたものにすることをこの時はまだ知らない。

かくして、Aを触媒に先輩を召喚することに私は成功したのである。
高校の近くのカラオケボックスに現れた先輩は、もっと厭世的かと思ったが割と社交的だった。
実際に話した先輩は、やっぱり詳細不明で生活や趣向や人間性がよく見えない。当時の私は、「ははん、ミステリアスが魅力的ってこういうことを言うのね?」とか思ったりした。
先輩はカラオケとぷよぷよ伊坂幸太郎とサンタさんが大好きだった。

その後、ベタに部長と付き合っていた私はなんやなんやでだるくなり陸上部を一年で辞めた。
部長とは自然消滅した。高校生の部内恋愛なんてそんなもんである。
私は陸上部を辞め、先輩は高校を卒業したが先輩の浪人生活突入により私たちの交流は存外長く続いた。
私たちは毎月のようにカラオケに行き、開店からフリータイムの終わりまで歌い続けた。カラオケを出たらそのまま解散した。たまに先輩の家にお邪魔して、64のぷよぷよスマブラでボコボコにされた。ギターや数学を教わった。どれも上達はしなかった。

ある秋、文化祭の打ち上げでうっかり終電を逃した私は歩いて家に帰ることになった。
夜道を4時間弱歩き続けるのはあまりに不安で退屈だったので先輩にメールしてくだらない話に付き合わせた。どんな話をしていたか忘れてしまったけれど、先輩らしくない内容が最後の方に書かれていた。「○○さんがどう思ってようが、俺はずっと〇〇さんと」メールを読んでいる途中で携帯の電池が切れてしまった。

夜道で一人通信手段を失った私は怖くなり、見知った風景になるまでひたすら走った。
そのはずみで携帯を落としてしまったらしく、電源も入っていないそれを探す手段はなく、当時のガラケーにメールのクラウドバックアップなどあるはずもない。
後日、先輩に問い合わせたが読ませてくれず、結局あのメールは読めずじまいになってしまった。

その後、お互い大学生に進学し会う機会は少なくなり、ある時先輩がドタキャンをして、虫の居所が悪かった私は悪態をつきそこからほぼ交流は断絶状態になった。
しかし当時付き合っていた彼氏の家が先輩の実家の近くだったため、私はたびたび先輩を思い出した。
三年生の冬、ふと思い立って先輩に連絡をしてみた。お互い喧嘩別れっぽくなってしまっていたことにモヤモヤしていたので、居酒屋で簡単に仕切り直すことになった。もう先輩とカラオケに行くことはなかった。

先輩は四年生だったので就職が決まっていた。
当時のこと、学校のこと、就職のこと、交際相手のこと。色んな話をした。先輩は関東にいってしまうらしいこと。懐かしかった。もう何を話したか全く覚えていない。でも先輩と話せて嬉しかった。
ほどほどの時間で引き上げ、私はそのまま当時の彼氏の家へ戻った。その後先輩とは一度も連絡を取っていない。

あのメールを全部読んでいたら、何か変わっていたんだろうか。例えば今でもたまに近況報告したりする仲だっただろうか。それとも恋愛に発展してもっとつまらない終わりを迎えていただろうか。私たちの間に恋愛感情は生まれ得なかったとは思うけれども。それでも。
先輩は私のことをどう思っていたのだろう、友達だと思ってくれていたのだろうか。どんな気持ちで相手をしてくれていたのだろう。

その後、鬱の発症をきっかけに男性とのコミュニケーションが上手くいかなくなり今日に至る私は、時々先輩と遊んだことを思い出す。
恋も愛も性も介在せず、ただ男の子と二人で楽しく遊べたのはあれがきっと最後だろう。私が先輩に触れたのは自転車に二人乗りした時くらいだった。

私の先輩に対する感情はなんだろう、なんだったのだろう。憧憬なのか、友情なのか、それともまさか恋慕だったのか。

私は今年で26歳になる、先輩は28歳だ。いまさら会って何することもないが、二度と会えない人として先輩のことを思い出すとどうしようもない喪失感に襲われる。また会いたい。でも、楽しかった時間は綺麗なまま保存しておきたい。やはり、今更会ってもどうしようもない。未練があるとするならば、先輩はとても綺麗な名前だったのに一度も名前で呼ばなかったこと。私は最後まで照れて苗字に先輩呼びだった。

社会人になった私は、また強く惹かれる文章を書く人間を見つけていた。先輩以来のことだ。
彼は同期入社したコピーライターだった。

彼と、学生の頃好きだった作家について話をした。
彼は伊坂幸太郎が好きだと言った。

婚約者になった彼の部屋で、サブスク解禁されたばかりの米津玄師の楽曲の中に先輩がよく歌っていたWORLD'S END UMBRELLAを見つけて書きたくなった、今はもうどこで何をしているのか全く分からない、二度と会うことのない先輩の話。

おおさかキッズパスポートと私

記憶違いでなければその昔、大阪にはおおさかキッズパスポートというものが存在したと思う。

それも私が小学校低学年の頃に配布されたので20年近く前の話になるだろうか。

おおさかキッズパスポートとは、大阪各地に点在する博物館、美術館、自然公園、文化的施設、レジャー施設を紹介している冊子で現地に行くとスタンプを押してもらえるというシステムだった。

 

高学年あたりで謎の覚醒を遂げた私は時に家族を巻き込み、時に一人でそのおおさかキッズパスポートなるものに記載された場所に行きまくった。

よくわからない端っこの方には遠いし怖いからいかなかった。それを言えば北摂も大阪の端っこではあるが。

 

今となってはもうどこに行ったかすらほとんど覚えていない。記憶があるとすれば、高槻かどこかにアクアピア?だかなんか地方の割に満足感のあるウォータースライダーを有したプールくらいだ。

自然博物館が併設されており、その地域周辺の川魚を見たりちょっとした歴史なんかを学ぶことができた。

記憶の中のそこはいつも曇天か小雨だ。わざわざ悪天候を選んで隣町のプールまで何度も出かけるほどアホな家族でもなかったと思うので、果たして本当にそんな場所があって家族で出かけたという事実があるのかも判然としない。

ただ、ネットで検索してしまうのも味気が無くなんとなくそのまま確かめずに置いている。もしかしたらこれを書き終えた後しれっと検索するのかもしれない。

 

ある時、おおさかキッズパスポートを手に提携施設でスタンプコーナーを探してみるとこれが全く見つからなかった。スタッフさんに尋ねるともうサービス終了で撤去されたのだという。

すこぶる悲しかった。その時にはもう配布されてからかなりの時間が経ってはいたが私の大阪キッズパスポートに対する情熱は冷め切っていなかったのだ。

掲載されている施設はどこも面白そうで、校外学習なんかで行けばきっとどれも楽しめそうではあったがスタンプが貰えないその場所に休日わざわざ出かける気には到底なれなかった。

何かが貰えるのかも知らない、全て集めてたからといって履歴書に書けるわけでもなかったが私はどうしてもそのスタンプを全て集めたかったのだった。

以降、大学で美術館に行くようになるまでそういった施設には行かなくなってしまった。

 

あれは本当にいいものだったと思う。

配布された小学生の何割が活用したのかは分からないが、スタンプ目的でも私が歴史や文化に触れるきっかけを作ってくれたし何よりおっかない父親を遊びに誘う口実を作ってくれた。

なくすのが惜しいサービスだった、なにか後継のものはないのだろうか…。

 

月単位で得る金額の増加と引き換えに日の体感速度の爆速化が止まらない昨今。

ユキチケットで夢や国や映画の街に行くのも好きだけど、たまにはあの頃のように小銭を払ってゆっくり文化館なんかを回って過ごすのも良いなと思った。

おおさかキッズパスポート、万歳。

赤い爪

剥げたペディキュアを彼が慣れない手付きで塗り直してくれている。

その間に久しぶりの更新を済ませてしまおう。

 

今年に入ってから体調を崩し、少し前から彼の家にお世話になっている。

始業時間ギリギリまで寝て、リモートで仕事をして、たまにきちんと料理して、休日は一緒にゲームしたり、映画を観たりしてゆっくり過す。やや自堕落。

 

ある日、外に出ないからと彼の足にペディキュアをさせて欲しいとねだったら何の抵抗もなく快諾され、せっせと彼の白い足に色を乗せた。

赤みの差した色白なその足先は、黄黑い私の足に比べ何倍も赤い爪が似合った。

 

彼との生活は穏やかで、優しく、誰も私を家政婦にしないし、殴らないし、わざと陰口を聞かせてきたりしない。天国かと思う。ニアリー桃源郷

 

しかしながらこうも長年メンをヘラしていると隠れミッキー探索職人を遥かに凌ぐ探索能力を発揮して小さな不幸を自覚しにかかろうとするし、もはやそれも半ば言いがかりに近い上に全盛期に比べ感性もボキャブラリーも大層劣化しているため何に昇華するでもなくシンプルに病む。地獄。南無三。

 

いい加減シンプルに幸せになりたい。

誰か私を助けて欲しいし私の辞書から元カノという言葉を消してほしいし、生まれつき高い鼻筋が顔面をハイウェイしてることにしてほしいし、ついでに学歴を旧帝とは言わんからせめて同志社にして欲しいし、彼と浮名を流した女は全員異世界転生するか別の世界線に移動して欲しい。

 

くだらないことを書き始めたあたりでトップコートが乾いた。

 

自分でするより若干上出来なペディキュアに、相変わらず器用だなと感心しつつちょっとムカついた。

天一の日

「どんな体型でもきみは可愛いし大好きだよ」

 

今までそんな風に宣った男たち。

お前らはどうせ私が歩く焼豚ならまず視界にすら入れなかったんだろうな。

 

そう思いながら久々のラーメンのスープを飲み干した。今日は天一の日だ。

 

九月末日、年始から付き合っていた彼氏と別れた。

きっかけは音楽性の違いとか方向性の違いとかまあそんなところだった。

 

彼氏ができると私は大好きなラーメンをほとんど食べなくなる。

自慢の彼女でいたい、可愛いと思われたい。

そうやって無意識に体に良い野菜や糖質の少ないものに手を伸ばすし、狂ったように筋トレをする。まさに献身欲と承認欲求の妖怪である。

塩分も脂質も暴力的なこってり系ラーメンなんて以ての外だった。

 

そんな生活が終わった。

 

この一杯はその象徴と言える。

久々に喉を通ったドッロドロのスープは、

「男のため」が一切ない自由の味がした。

 

私が人生で本当の意味で一番自由だった頃、毎日のように通っていた一乗寺のラーメンを思い出した。

 

自分の心を満たすためだけに摂取するラーメンは度し難い美味さがあった。

形振り構わずカロリーと手を繋ぎ、自由と熱い抱擁を交わすことが許されるなら侘しく感じがちな独り身もまた楽しいものである。

 

近いうちに北白川の本店にでも行くことにしよう。

 

おわり